「一人で死ねよ」じゃなく。「生きてほしい」と。

2019年6月2日 17時59分 | カテゴリー: 活動報告

川崎市にあるカリタス小学校の校舎。関係者のご心痛は察するに余りあります。

5月28日朝、川崎市登戸駅近くで発生した殺傷事件。さまざまな観点から議論されています。

51歳の男性(引きこもり、の状態にあったと考えてよいようです)により、小学生1人と保護者1人が命を奪われました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

「子どもを巻きこむな、一人で死ねよ」

直後から「何の罪もない子どもを巻きこむな。自殺するつもりなら、一人で死ねばいい」との発言が、有名人の言葉としてメディアで流れました。それに対しすぐ、NPOほっとぷらす藤田孝典さんが「その言葉で追いつめられる人がいる。慎重に」と発信するとさらに、藤田さんに対する抗議と賛同の両方の意見がネット上を駆け巡りました。

何で加害者を擁護するの? いいえ、擁護ではない。

西園寺は、通り魔事件に接するたび、いつも思うことがあります。「この加害者にも、赤ん坊の時期、3歳4歳の時期があったはず。その時点から事件の犯人になる運命だったとは思えない…」

人間の人格形成は、遺伝子だけですべて決まるわけでないし、生育環境だけですべてを説明できるものでもありません。厳しい生育環境に置かれても、けっして犯罪者にならない方もたくさんおられます。以下に書く西園寺の考えは、加害者を擁護してのものではない、とはっきり申し上げておきます。

追いつめられてるけど、ぎりぎりで踏みとどまっている方を思いやる

今この瞬間にも、たくさんの人が、ため息をつき、テレビやスマホの画面をじっと見つめて、明日が見えない辛さに耐えている。と西園寺は考えます。

精神を病んで。仕事を失った。行き場がない。人間関係に疲れて。お金がない。人の目線が怖い。みんなが自分を嘲笑しているみたい。元気が出ない。人に会いたくない。生きてる価値がない…。

自分の価値がないと感じ、「消えてしまいたい」「死んでしまいたい」(それは本当に死にたい、というよりも、死にたいくらい辛い、わかって!という悲鳴だと西園寺は考えていますが)とわが身と心を痛めている人が、何千人も何万人もいると考えています。

そんな方たちを突き落とすようなことをいっちゃいけないです

自分の部屋で息をひそめて耐えている方たちが、今回の報道と「一人で死ねよ」発言を聞いてどう思うだろうか。と西園寺は想像します。「やっぱり、他人に迷惑かけず、まきこまず、一人でひっそりと死んでいくべきかなあ」「自分のような役立たずは、世間の迷惑なんだなあ」と諦めてしまうのではないか?

「死ねよ」ではなく、「事件を起こすほど辛いのなら、助けを求めていいんだよ」と言うべき

死んでしまった加害者に「一人で死ねよ」と言っても、届かない。

西園寺は「今まだ生きている方(予備軍と言ってもいいかもしれません)に向けて、メッセージを送るべき」と考えます。「あなたは迷惑なんかじゃない。生きていてほしい。もちろん人を傷つけないでほしい。あなたのありのままに価値があるんです。辛さを吐き出して助けを求めていいんですよ」と社会全体がメッセージを送るべきです。「助けて~」と声をあげてかまわない。殺人事件起こすより、ず~っとマシではないですか。

加害者の生育環境のどこかで、助けがあれば…

今回の加害者の生育歴の一部が明らかになっています。両親の離婚後、親族に引き取られた時。兄弟(実際はいとこ)と区別されていることに周辺が気づいた時。義務教育終了後、社会人となったが続かなかった時。ひきこもりが常態化した時(おそらく10~20年前ぐらい?)。昨年末、年老いた親族が自らの介護サービスを受けるため川崎市に相談した時。

現時点の報道を見ただけでも、いくつかチャンスがあったように思われます。どこかで何らかの働きかけがあれば、犯人にならないで済んだのではないか? 踏みとどまれたのではないか?

日本は犯罪が少ない国?

海外からは、「治安のいい日本でこんな事件が?」と驚きの目で見られているようです。件数として少ないからこそ、多くの方に衝撃を与えていると言えます。

西園寺は、こんな事件のあるたびに、防犯カメラが増え、セキュリティ会社の仕事が増え、警備費用が雪だるま式に増えていくことに不安を感じています。(経済低成長の時代に、唯一活況を呈しているのがセキュリティ会社みたい)

「働くもの=役に立つもの」と「働かない働けないもの=役に立たないもの」を区別し、「社会に必要な人間」はいていいけど、「必要ない人間」は消えてかまわない。という私たちの社会のあり方を考え直すべきではないか? 一人ひとりに備わった基本的人権への理解を深めることではないか? そう考えずにはいられません。