議会と議員は今まで一体何をしていたのか?~住民投票条例案否決その6~

今年8月に公表され、議会で報告された「素案」。市の考え方(今回の条例案そのもの)を提案しています。

ここまで、「11月以来起こったこと」から書き起こし、順に書き綴ってきました。

市長応援側だから賛成したのではない。ずっと懇談会を傍聴し、議論の内容を確かめ、自ら学んできた上で、武蔵野市の市民自治を担保するために大変良い条例案だと確信したからです。

「中立」と発言した無所属議員は、おそらく議員を「市長応援側」「対立候補応援側」と2色に分けた上で、そう述べたのだろうと思います。自分たちはどちらも応援していない、だから中立、と。それは違うと思います。

西園寺と生活者ネットワークは、市長を応援しているから、住民投票条例案に賛成したのではありません。長年学びを重ね、その趣旨を理解したから賛成したのです。昨日今日の話ではありません。

2005年に邑上守正市長が当選したときから。2012年に原発都民投票の直接請求にかかわってからは住民投票のしくみについて。2013年小平市都道に関する住民投票では投票率が50%に達せず投票用紙が燃やされてしまうプロセスを経験しました。その後市内で学習会を主催して、現行制度の不備を市民の皆さんとともに学びました。

西園寺と生活者ネットワークは、ずっとこのテーマに関心を持ち、学びを深めてきたのです。2月に公表された「骨子案」、8月に公表された「素案」に対して、自民党市議の動きがないことを、むしろ不思議に感じていました。本当にこれでいいの?? 反対しないの? 話し合っていないの? 選挙で手一杯なのかしら、と想像していました。

選挙に参加した自由民主市民ク、公明党、選挙では中立だった無所属議員の皆さんは、3つ続いた選挙の間、何をしていたのでしょうか。骨子案素案に対して、まずいと判断していたのでしょうか?  例えば、外国籍の方居住3か月、という要件に対し、これはいかんと思っていたのでしょうか? 西園寺は「よし」と思っていました。

議会の役割は「考え方が違うからこそ、共通の基盤をもとに意見を戦わせること」

なぜ議会は必要なのでしょうか? なぜ近代国家では間接制を採用しているのでしょうか?

SNS時代に至り、市長がネット上に公表した議案に、直接有権者が賛否を表明し、その結果でものごとを決める。直接制でいいじゃないか!と考える方々がこれから出てくるかもしれません。

しかし、西園寺と生活者ネットワークは、そうは考えません。議会は必要です。議員も必要です。

理由1 暴力的な、大音量の街宣車、ヘイトスピーチといっても過言ではない聞くに堪えない個人攻撃。内容が賛成か反対かにかかわらず、仮に直接制を採用したら、大部分の方は恐れをなしてしまう。冷静に考え、判断するより前に、「巻き込まれたくない」と防衛的になってしまう。

私たちはいつも余裕ある生活をしているわけではありません。病気もけがもある。常に政治に関心を持って継続的にかかわっていけるわけではない。(もちろん、西園寺と生活者ネットワークは、少しでも政治に関心を持ってもらうため、自分たちにできる広報、学習会、おしゃべりの場、など最大限の努力をしています)

だからこそ、議員を選び、議会という場を設定しているのです。議員は正々堂々とオープンに、平和に、言葉による闘いをたたかう。それを有権者に見てもらい、賛同を得る。これが市民代表として議員を選び、専従者として負託する意義だと考えます。

理由2 考え方、見え方が違うのは当たり前。武蔵野市民が大きな立方体を形づくっていると仮定した場合、X軸、Y軸、Z軸。26人の議員が26種類の守備範囲をもっていて、市民のネットワークをつないでいる。(生活者ネットワークは、議員定数削減に反対してきました)

違うことこそ重要。バラエティーに富んでいて、その声が市政に届くことが武蔵野市民全体の利益になる。だからこそ、議会が必要。違いを前提にして、議会は運営されているのです。

共通の基盤て何?

行政が客観的事実を収集して、議会に示し、HPで公表した「骨子案」「素案」だと思います。国や都が公表しているデータもそれにあたる。それをどう使うか、は議員の努力に任されている。賛成の理由に使うこともできるし、反対の理由に使うこともできる。

なぜ急に反対運動を始めたのか? 街宣車の侵入を許すはめになったのか?

今回の一連の流れの中で、西園寺が最も怒りを覚えたのは、今述べたような「議会と議員の役割」を果たしていない反対派議員の言動です。

2月骨子案、8月素案に示された要件をそんなにも問題視していたのなら、なぜその時に明確に反対を表明しなかったのか?

「この案では賛成できませんよ」と執行部側に示し、譲歩を迫ることはできたはず。最大会派なんですから。

「問題の多い条例が提案されようとしています。皆さん、関心を持って意見を聞かせてください。説明会に行って質問してください」と議員各自の広報手段で訴えることができたはず。

さらには、市民全体が注目する10月市長選という絶好のチャンスを使い、「住民投票条例案に問題あり」と訴えることができたはず。

なぜそれをしなかったのか?

現在の自由民主市民クの会派代表は、自治基本条例の懇談会に、当時の副議長として足掛け3年かかわり、議論の内容を熟知している立場であったのは周知の事実。

反対するなら、街宣車が入ってこないように配慮する。市民が冷静に考えることができるよう配慮する。そういう時間的余裕と力量を十分持っておられる方ではないでしょうか?

議会の知恵は「市民全体の不利益を招かないようにすること」ではないですか?

繰り返し述べますが、議会は「暴力によらず」議論を戦わせて、最後は多数決で決し、前に進んでいくしくみです。今回のように、反対側の街宣車や両方の活動家とみられる方が集まって、市民生活を乱した責任は、反対側の議員と政党にあると思います。市民に迷惑かけるようなことはしちゃいけない。既に亡くなった自民党議長経験者が言っておられたことを西園寺はよく覚えています。

たとえ、少数派であっても~その7につづく。