たとえ少数派になっても~住民投票条例案否決その7~

異なるルーツのご両親を持つ大学生、と思われる若い男性が「僕は反対なんですけど」と話しかけてきました。まっすぐに向き合って3分ほど意見交換しましたが、「そこは事実と違う。正しい情報を見てみて」とお話したところ、最後に突然「中国に帰れ」とひと言つぶやいて去って行かれました。

市民参加を進めようと政策提案し、実現してきた西園寺と生活者ネットワークですが、たとえ少数派になったとしても絶対に譲れない部分があります。

市民と向き合う。市民の声に耳を傾ける。をモットーに活動してきました。⇔ だけど、どんなに反対側の市民の声が大きくなったとしても、人権と平和に関しては、絶対に譲れません。

6期務めた元市長が、市民全体の利益につながる中学校給食を実現しなかった経験を武蔵野市が持つこと。市民参加、議員参加、職員参加で先進自治体とみられてきた武蔵野市だからこそ、さらに市民参加を進めるための政策提案を、西園寺と生活者ネットワークがしてきたことを報告しました。日々の生活をよくするために、政治を使いこなす。生活と政治を結びつける。議員を偉い人にしない。お任せにしない。市民の声が反映されるまちづくりを! と選挙のたびに訴え、支持をいただいてきた西園寺みきこは、

地方自治の主権者は、住民である。首長ではなく、議員でもない。住民の意思を反映するためにこそ、政治がある。と確信しています。だから、自治基本条例の制定に賛成しました。

首長と議会が取り合ってくれないときのための「最後の手段」「伝家の宝刀」としての住民投票条例案にも、賛成しました。

どんなに反対側の市民の声が大きくても、信念は曲げません。

しかし、今回のような自分たちの勉強不足を棚に上げての、議員としての自覚に乏しい、根拠のない反対運動には、全く与することができません。特定の国籍の方を侮蔑する言説や、外国籍の方が治安を乱すなどの言説は、絶対に許すことができません。本当にひどい。それでなくても複雑な思いを抱えて市内で暮らしている、多様な方々を一層苦しめるような発言を許すことはできません。

西園寺と生活者ネットワークは、社会は「開く」方向に進むべき、グローバル化の時代にあってもう避けられないと確信しています。多くの日本人は、コロナ禍の先にそれを見据えて生活実感として理解されていると思います。

いや、そうではない。社会は閉鎖的、排他的になっている。国全体が今回のような言説に染まるかもしれない。と懸念される方もあるかもしれません。仮にそうなったとしても、人権と平和、性別によらないその人らしく生きられるまちづくりは、西園寺と生活者ネットワークの根幹です。社会がどう変わっていっても、ここは絶対譲れません。

歴史が教えてくれる~民主主義国家が必ず正しい選択をするわけではなかった

佐伯啓思さん(京都大学名誉教授)は、文藝春秋1月号「『民意』亡国論」でこう語っています。

1930年代のドイツでナチスは圧倒的な『民意』の支持を受けて政権をとった。そしてそれがデモクラシーを崩壊させたのである。

今日、われわれはナチスからも『民意』の危うさを学んだはずであり、それを無条件に信じることなどできるはずはない。にもかかわらずそれを手放すこともできない。こういう奇妙なディレンマに陥っている。本心では信じていない民意にすべてを委ねるほかないのであり、それが、今日の、政治への不信、政治の不安定、政治への無関心、政治のエンタメ化の核心にある。とすれば、これは『民意が政治を崩壊させる』というべき深刻な事態ではなかろうか。

大多数の国民は、日々の仕事やその場限りの快楽の追求に忙しく、またおおよそ半径数メートルの身辺事項にしか関心をもてない。政策判断においても、おおかた、それが自分にとって得か損かの判断になるほかない。

民意が必ず正しいわけではない。歴史の辛い教訓を、私たちは忘れてはいけません。メディアが一色に染まって戦争に向かっていった日本の暴走の時代を忘れてはいけません。

声が大きい方が正しいとは限らない。たとえ少数派であっても、市民の多くの声に逆らうことになったとしても、西園寺みきこと生活者ネットワークは信念を曲げずに活動を続けます。議会の機能を使いこなし、議員の責任を果たしていきます。できる限りの方法を使って、この条例案の持つ正しい意味をお伝えしていきます。